健康マラソンを提唱する「熊本走ろう会」は1972(昭和47)年1月に発足。熊本市の医師、加地正隆さん=初代会長、2009年死去=らが呼び掛け、当初は壮年のランニング愛好者13人でスタートした。
請われて名誉会長になったのが、陸上界の重鎮だった金栗四三。「医者が医者いらずの(健康な)世の中をつくろうというのが気に入った」。競技スポーツだけでなく、国民の健康づくりや女性の体力向上にも情熱を注いできただけに、会の趣旨に大いに賛同した。
翌73年3月、走ろう会は大矢野町(現上天草市)と協力し、全国の健康マラソンの先駆け「天草パールラインマラソン」を初開催した。スターターは81歳の四三。「遅いあなたが主役」の名文句を生んだ大会は、4年後に50回の節目を迎える。
同じく73年から同会が地道に続けているのが、玉名市にある四三宅への訪問マラソン。没後も「墓参」に名を変えて伝統を守っている。会員らは熊本市中心部から田原坂を越える約32キロのコースをマイペースで走り、郊外にたたずむ四三の墓の前で手を合わせる。
「マラソンがブームになり、今では普通の市民も42・195キロを楽しんで走っている。金栗先生ら先達が目指した姿だ」。1月まで4代目の会長を務めた藤川久昭さん(82)=熊本市=は感慨深げに語る。(蔵原博康)
2018年02月17日(土)付熊本日日新聞朝刊掲載
「日本マラソンの父」の金栗四三は、女子体育の振興に熱心な「女子スポーツの生みの親」でもある。1920(大正9)年、ベルギー・アントワープ五輪からの帰国途中にドイツのベルリンを訪ね、市民のスポーツ熱に感動したことがきっかけの一つという。
当時のドイツは第1次世界大戦に敗れ、国民の暮らしは困窮。そうした中でも大勢の女性がスポーツを楽しんでいる姿に、四三は感銘を受けた。「日本人の体力や体格の向上には、母親となる女性の理解が欠かせない」
帰国した四三は勤め先の中学校を辞め、母校の恩師である嘉納治五郎の紹介で、東京府女子師範学校に就職。すぐに女子体育の普及に取り組み始めた。
駅伝などのスポーツ行事を企画してきた経験を生かし、国内初の女子テニス大会や女学校対抗の陸上競技大会を開催。「しとやかさ」が女性の美徳とされた時代で風当たりも強かったが、徐々に理解者が増えて女子の競技団体もつくられた。
女性スイマーとして国体やインターハイで活躍した県水泳協会理事長の辛木秀子さん(64)=熊本市=は「男女を問わず、国全体のスポーツが盛んになることで健康寿命も延びる。『国力の源』という金栗先生の教えは、現代にも通じている」と指摘する。(木村馨一)
2018年01月09日(火)付熊本日日新聞朝刊掲載