初めての駅伝開催から3年後の1920(大正9)年、金栗四三の発案で関東の大学対抗駅伝が始まった。後に名称を変え、現在も毎年行われる「東京箱根間往復大学駅伝」(箱根駅伝)は、正月の風物詩として国民的な人気を博す。
「マラソンは孤独な競技で、個人の練習には限界がある。大学に競い合わせれば普及や向上に大きな効果を生むだろう」。そう考えた四三は早速、各大学や新聞社に企画を持ち込んだ。同じ年にアントワープ五輪を控え、運動界が盛り上がっていたことも実現を後押しした。
コース案は複数あったが、「箱根八里の天下の険に挑んだ方が面白い」と四三が提案し、東京-箱根の往復10区間で競うことが決定。現在と同じ東京、鶴見、戸塚、平塚、小田原、箱根で区切ることになった。
第1回大会は2月14日に開かれ、早稲田、慶応、明治、東京高等師範(現筑波)の4校が出場。往路は明治が制したが、復路の最終区で東京高師が逆転し、初代の総合王者に輝いた。
箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟の有吉正博会長(70)は「箱根駅伝の創設は金栗先生の大きな功績だ。出場者から五輪メダリストはまだ出ていないが、箱根から世界へという思いは受け継がれている」と力を込める。(前田晃志)
2018年01月03日(水)付熊本日日新聞朝刊掲載