東京五輪から3年後の1967(昭和42)年3月、金栗四三はスウェーデンのストックホルムを再訪した。マラソンで五輪に初出場した思い出の地。大会55周年を記念する国際親善行事に「日本人初の五輪選手」として招待されたのだ。
ひのき舞台のレースでリタイアし涙をのんだ若者は、この時75歳。現地では、まず倒れた自分を介抱してくれたペトレ家を訪ね、丁重にお礼を述べた。
五輪記念陸上競技場では、レース途中で消息を絶った「消えた日本人」に、改めてゴールの機会を与えるという特別なセレモニーが待っていた。大観衆が見守る中、四三はコート姿でトラックを走り、両手を挙げてテープを切った。
「日本の金栗選手、ただいまゴールイン。タイム、54年8カ月6日と5時間32分20秒3。これをもってオリンピック・ストックホルム大会の全日程を終了します」。場内アナウンスで、競技場は大きな拍手に包まれた。
四三も粋に返した。「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子供と10人の孫ができました」。ユーモアあふれる名せりふは“金栗伝説”の一つとして、語り継がれている。
ストックホルムで四三の足跡を取材したノンフィクション作家の佐山和夫さん(81)=和歌山県=は言う。「感動のエピソードだが、本当は走り残した全コースをランニング姿で走りたかったのではなかったか。金栗さんは、そういう律義でいちずな人だ」(蔵原博康)
2018年02月12日(月)付熊本日日新聞朝刊掲載
日本人がマラソンで初めて世界と戦ったストックホルム五輪。「センターポールに日章旗を」と意気込んで臨んだ金栗四三だったが、本番では30度を超す猛暑のレースに苦しみ、まさかの「途中棄権」で惨敗した。
決戦の日は1912(明治45)年7月14日。よく晴れた日だった。重圧からか前日は眠れず、朝食もあまり喉を通らなかったという。送迎車が来ないトラブルもあり、スタート直前に滑り込むように競技場に入った。
午後1時48分号砲。選手68人が一斉に飛び出すハイペースの展開に四三はあせったが、次第に冷静になり順位を上げる。しかし気合を入れ直した中盤、急激な疲労に襲われた。日射病とみられる。
照りつける真夏の太陽と舗装路からの熱気に意識がもうろうとなり、折り返し点を過ぎた26~27キロ付近で道端に倒れ込み失神。最終的に半数の34人が脱落し、うち1人が死亡するという過酷なレースになった。
今年8月の陸上世界選手権男子マラソンで日本人最高の9位だった川内優輝さん(30)=埼玉県庁=も、暑さに苦しんだ経験を持つ。「夏は体の底から暑くなり、全身のだるさや大量の発汗がある。ゴール後に熱中症で過呼吸になった時は、死ぬほど苦しかった」(前田晃志)
2017年11月13日(月)付熊本日日新聞朝刊掲載