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霊巌洞は、熊本市西部の金峰山西側の山すそにある洞窟で、宮本武蔵が二天一流の兵法書「五輪書」を著したところ。洞内は歩いて10歩ほどの広さだ。
「五輪書」は武蔵が亡くなる年に完成した。自分が生きてきた証(あかし)として、また自分を世話してくれた細川家に対する感謝の書ともいえる。
武蔵は千葉城跡の屋敷で息を引き取った後、現在の熊本市竜田町弓削の武蔵塚に葬られた。同市島崎の武蔵の高弟寺尾家墓地内に、武蔵の墓と伝えられる墓石があり、こちらが「西の武蔵塚」と呼ばれるのに対して、武蔵立像が立つ竜田町弓削の墓所を「東の武蔵塚」と呼ぶ。
[武蔵が熊本に来てからの年表]
1640年(57歳)
細川忠利に客人として召され、熊本千葉城跡の屋敷を与えられる。
1641年(58歳) 「兵法35ケ条」が完成、忠利に進呈。
1642年(59歳)
忠利死後、門を閉じて茶禅書画三昧(ざんまい)に送る。
1643年(60歳)
霊巌洞にこもる。「五輪書」執筆に入る。
1644年(61歳) 霊巌洞で病が進み、長岡寄之らが武蔵を千葉城跡の宅に帰らせる。
1645年(62歳) 「五輪書」完成。「独行道」を記す。5月19日没。熊本市竜田町弓削に葬られる。
<2002年7月21日、撮影・編集 白石>
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