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■ 人形浄瑠璃 ■
〜 竹迫座拠点に各地で興行 〜
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菊池郡合志町の歴史資料館に江戸―明治時代の浄瑠璃本650点以上をはじめ、人形の頭や衣装などが収蔵されている。当時、県内で活躍していた浄瑠璃三味線弾きの金澤蟻鶴(ぎかく、本名志柿儀三郎)が所有していたもので、子孫の可然さん(今年七月に92歳で死去)が1997年に寄贈。これだけまとまって残っているのは珍しいという。浄瑠璃は、県内でも江戸末から明治にかけて盛んだったといわれ、県無形重要文化財の「清和村文楽人形芝居」からもその一端がうかがえる。しかし、清和文楽人形を除けばほとんどの人形座が姿を消した今、忘れさられた民衆芸能となってしまった。「蟻鶴文庫」をもとに、“芸どころ・熊本”で一世を風靡(ふうび)した浄瑠璃の歴史をたどった。
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| 金澤蟻鶴が所有していた浄瑠璃本の一部。ところどころに朱が入り、蟻鶴が使った跡がしのばれる=合志町歴史資料館 |
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| さまざまな表情をした頭=合志町歴史資料館 |
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「蟻鶴文庫」は、県立大学助教授の川平敏文さんの指導で岡村綾子さんが卒業研究で調査した。その結果、演目の全段が収録されている正本が96点、稽古(けいこ)本といわれる一つの段だけを抜き出したものが425点、写本128点があった。
演目は多彩で、「仮名手本忠臣蔵」「里見八犬伝」など、時代物がほとんどで心中ものは少なかった。当時、歌舞伎(かぶき)などでよく知られた話が、よく語られていたといわれるが、「蟻鶴文庫」からもそのことが分かる。
興味深いのは版元。大阪の「加島屋清助」が多いが、博多の「丸林久三郎」「船木弥助」の本もあり、明治時代には九州一円に浄瑠璃が普及していたことをうかがわせた。また、山鹿や菊池などの本屋の印が押された本も多く、県内でも浄瑠璃本の需要が多かったことを裏付けた。
川平さんは「保存状態はあまりよくないが、これだけまとまってあるのは貴重。所々に朱で書き込みがあって、実際に使われていたことが分かる。また、長崎や天草で興行したこと、土地の警察署に出した興行許可申請書の下書きもあって興味深い」という。
●金澤流を興す
金澤蟻鶴は天保14(1843)年、合志町竹迫(たかば)に生まれ、明治23(1890)年に死去した。若くして江戸に上り、金澤流を興したとされ、明治維新の混乱を機に帰郷したと伝わる。帰郷後、地元の竹迫座の三味線弾きとなったが、江戸で一派を興した名手の三味線が聞けるとあって、竹迫座は大いににぎわったらしい。
竹迫座の歴史は古い。鎌倉時代に竹迫城を築いた中原師員(もろかず)に従った観世流の能師志柿又三郎は、天正13(1585)年の竹迫城落城に伴い、能師としての家格を失ったが、寛永のころ(1624―44年)から歌舞伎を取り入れ、元禄のころ(1688―1704年)から「竹迫座」と称したという。江戸末から明治にかけて全国的に人形芝居が盛んになると、竹迫座も人形芝居に転向したようだ。
また、一説では近くの菊池市にあった「四丁分座(しちょうぶんざ)」という有力な人形座から派生したともいう。四丁分座は、菊池の商人らが書き残した「嶋屋日記」によると江戸中期の安永3(1774)年にはすでにあった。今でも一帯では人形浄瑠璃のことを「四丁分」と呼ぶほどで、その知名度やレベルの高さがうかがえるが、蟻鶴も四丁分座で三味線を弾いたらしい。
●一夕壱両之値段
竹迫座は嶋屋日記によると安永年間(1772―1781年)ごろから地蔵祭りなどで芝居興行を行い、大当たりを取っている。文久元(1861)年、熊本市の横町極楽寺で四夜興行し、「一夕壱両之値段」だったという。また、天草・高濱村の庄屋上田宜珍の日記には文化年間(1804―18年)に竹迫座が船でやってきて一週間ほど公演したとある。さらに山都町浜町の小一領神社の社司男成守寿の日記にも興行記録が出てくる。
しかし、竹迫座そのものの記録は、ほとんど残っていない。地元では蟻鶴が浄瑠璃三味線の名手で、旭志や鹿本などにも出掛けて公演したり、三味線を教えたりしていたことが、言い伝えとして残っているぐらいだ。「蟻鶴の子どもの恒平が二代目を名乗り、浄瑠璃語りの妻の夏恵=芸名・竹本蟻勢(ありせ)=と二人で、父同様に県内各地を回っていたようです。自宅の庭で開いた“浄瑠璃教室”で、地域の大人が習っているのを見た覚えがあります。今のカラオケに通じる所があった」と、合志町文化財保護委員長の嶋田正守さん(74)は話していた。
<< 群を抜く名門 菊池・四丁分座 >>
浄瑠璃三味線で一流派を興した名手の金澤蟻鶴も出演したという菊池の四丁分座は、県内各地にあった文楽人形座の中でも群を抜いていた。熊本大学教授の安田宗生さんは「明治に入ってからのことだが、全国レベルの一座と伍(ご)して熊本市の一流劇場で公演できたのは、県内に数多くあった人形座の中で四丁分座だけ。その実力は九州各地に公演に出掛けていることからも分かる」という。
県内には江戸から明治にかけて人形座が20ほどあったといわれる。旧清和村(現山都町)がまとめた「清和文楽の沿革」には清和文楽のほか県内11座で行った聞き取り調査の結果などを紹介している。
それによると上益城郡や宇城市三角町などの県中央から県北に分布。中でも上益城や菊池地方に多い。その多くが明治から大正時代に盛んに活動し、昭和初期から戦前にかけて座を解散したようだ。
四丁分座は嶋屋日記に安永六(1777)年に「東福寺開帳、あやつり」とあることから、すでに江戸時代には人形座としてあったことが分かる。一方で、明治の初めごろ、阿波(徳島県)出身の萩亀太郎という座元がいて、人形の繰り手は小国や津江、義太夫は四国方面から呼び寄せ、九州一円を回ったという記録もある。
芸能史家の永田衡吉著「日本の人形芝居」には「人形座として盛んになる前は春と秋に村々を訪れ、三番叟(さんばそう)を舞わし、“翁渡し”と称して豊年の予祝をして回った。この四丁分座は県内に多くの人形座を生んだ」と出てくる。
安田さんは「四丁分という山間部に九州一円に知られた人形座が、なぜ生まれたのか。四丁分座というのは、公演のたびに三味線弾きや浄瑠璃語りなどをあちこちから集める、今風にいえばプロデュース公演をしていた。竹迫座の金澤蟻鶴もそうしたメンバーの一人で、あちこちに名人と呼ばれる人がいたのだろう。当時大流行した民衆芸能なのにほとんど記録がなく、今では地元ですら忘れさられてしまった」と話していた。
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