■  斤量式測定法 ■

〜  南郷谷に美田もたらす  〜


 阿蘇・南郷谷を東西に貫き、今も300ヘクタールの田畑を潤す南阿蘇村の保木下井手。江戸時代初期、この井手を開いた用水方定役の片山嘉左衛門(松翁)は、井手の精密な測量を行うために『斤量式測定法』を考案したといわれる。「日夜寝食を忘れて思いを凝らし、各地の井手を視察して発想した」という斤量式測定法。当時は全国的に新田開発ブームで、戦国時代に発達した築城技術などで堰(せき)や取水口、用水路(井手)などが作られたとされるが、その土木技術はつまびらかではない。土木技術史に新たな1ページを書き加えようとしている斤量式測定法とは―。

 
310年余りも南郷谷を潤してきた保木下井出。豊かな水が1年中、とうとうと流れ、かつては生活用水にも使われていたという=南阿蘇村久石

斤量式測定法を検証するため竿秤を使った実験をする関義治さん(左)と郷利治・松翁顕彰会事務局長=9月22日撮影

 「斤量とは秤(はかり)で計ることですが、地元では竿秤(さおばかり)のことを今も『ちきり』とか斤量とか呼んでいます。測量に竿秤を使うことは初めて聞きましたが、実際にやってみると簡単に水平がとることができ、驚きました。持ち歩くことができるため機動性に富むうえに、当時、竿秤に対する住民の信頼はあつかったはずで、それを使った測量にも信用があり、工事を進めるうえで大きな力となったに違いありません」と、国土地理院情報管理課の関義治さん。

 当時、水準測量に欠かせない水平を求める方法として、@静水が水平面を作ることを利用し、例えば竹を2つに割ったものなどに水を入れるA糸に重りをつけた垂球をたらして、その糸に直角な線を求めるBやじろべえが正しくつり合っている時に水平になることを利用する―などがあったという。

●丹念にくり返す

 斤量式測定法は、これらの方法とは異なっている。竿秤は両側の重りの重さや位置の違いによってどちらかに傾くが、重りを変えることで傾きは自由に調整でき、重りを特定することで決まった傾きをいつでも簡単に求めることができる。水平を出すには傾いている竿を180度回転させて調整すればそう難しくはないという。

 関さんは実際に南郷谷を訪ね、斤量式測定法を試みた。嘉左衛門は保木下井手を造るに当たって対岸の一の坂(標高約560メートル)という、南郷谷を一望にできる所に毎日登り、測量したといわれる。保木下井手は保木下(同448メートル)から取水し、約4.7キロ離れた小牧(同429メートル)で終わっているが、一の坂を下りながら直線距離で約 3キロ離れた対岸の保木下と小牧と同じ高さの地点を決め、約19メートルの比高差を求めることができたようだ。

 比高差と距離からこう配が分かり、それに合わせて対岸の井手の通る場所を決めた。「夜、松明(たいまつ)をともして一の坂から眺め、場所を決めた」と地元に伝わるところから、松明の光を使って小まめに測量をくり返しながら微妙な調整をしたとみられる。「わずかなこう配の所も、この方法ならかなり精度の高い工事ができることを確かめました。嘉左衛門は何度も何度も一の坂に登ったそうですが、丹念な測量のおかげで正確な工事できたと思います」と関さん。

●通水まで15年

 東西に長い火口原の南郷谷は、その中央の一番低い所を白川水源など低地の湧水(ゆうすい)を集めた白川が流れるため、水利に乏しかった。豊かな湧水に恵まれ、”水の生まれる里”といわれながら水田を開くことのできない「荒蕪(こうぶ)不毛の地」であったと、嘉左衛門の功績などを記した「松翁事蹟」は記す。

 嘉左衛門が保木下井手の工事に着工したのは延宝2(1674)年。それ以前の寛文10(1670)年、嘉左衛門は下市井手(同村保木下から吉田下市)を引こうとしたが、洪水に苦しむ地元民から「白川から水を引けば洪水の危険が増す」と反対され、断念。 4年をかけて地形を丹念に調べ、保木下井手の工事に着工したといわれる。

 保木下井手が完成したのは8年後の天和2(1682)年。引き続き開田を行い、元禄2(1689)年に初めて通水し、”久木野米”が実った。嘉左衛門55歳。私財をなげうった開削開始から15年目のことだった。

 「嘉左衛門は息子など4代にわたって、南郷谷に数多くの井手を開削しています。保木下井手を契機に白川の南には琵琶首井手、上川原井手などが造られ、345町( 1町は1ヘクタール)の美田が開かれました。嘉左衛門は文字通り南郷谷の恩人です」と、地元の土地改良区OBで作る恵水会の伊藤拾会長(82)と、南阿蘇村文化財保護委員の小出篤雄さん(75)は口をそろえる。

●地元で顕彰運動

 嘉左衛門の誕生から370年に当たる今年、地元では顕彰会を結成して、碑の建立などに取り組んでいる。事務局長の郷利治さんは「現在、南郷谷には用水路が網の目のように張りめぐらされ、水田面積は1700ヘクタールに及びます。しかし、先人の功績は忘れられがち。もっと地域の恩人に目を向け、その精神に学びたいと思います」と、顕彰運動への参加を呼び掛けている。

 

<< 驚かされる 当時の技術 >>

 農業県・熊本は古くからの農業土木技術で作られたかんがい施設の上に成り立っている。加藤清正をはじめ、細川藩や相良藩で当時の最先端技術で造られた堰(せき)や用水路などの水利施設の多くは今も現役で活躍している。そのどれもが、立地や土砂の多少などに合った流速で流れるなど、絶妙な造りとなっている。しかし、土木技術史的な研究はほとんど行われておらず、当時のハイテク技術は謎のままだ。

 熊本のかんがい水源は河川依存型であるといわれ、菊池川や白川、緑川、球磨川という4つの川には17世紀ごろから数多くの堰や水路が建設されてきた。昭和45(1970)年の「肥後藩農業水利史」(本田彰男著)によると菊池川水系は20施設でかんがい面積は5,453町(1町は1ヘクタール)、白川水系は10施設3,554町、緑川水系は19施設5,463町、球磨川下流で3施設3,673町の新田開発があった。

 また、球磨川の上流である相良藩では、郷土史家の渋谷敦さんによると百太郎溝や幸野溝など5つの溝で3,636町の新田が生まれた。

 幸野溝の実測調査を行った渋谷さんによると、水路のこう配は300分の1程度でわざと蛇行させたりして、極めて緩やかな流れを作り出していることが分かった。また、3本で合計2,362メートルに及ぶトンネルは何度も掘り直した跡があった。トンネルは両方の口から掘っており、当時の掘削技術や測量技術では曲がるなどしてすれ違い、補正の跡が数多くあったという。

 「どんな測量技術があったのか。古文書などには出てこないのでよく分からないが、こう配の取り方などをみると高度な技術があったことは間違いない。調査中に地元の人から、竹を二つに割った中に水を張ってこう配を求めたという言い伝えを聞いたことがある程度」という。

 県内の農業施設に詳しい宇城市助役の飯田精也さん(元県農政部次長)は「用水路は基本的に地形こう配を利用して作られているが、土砂が多い所などではたまらないで流れるようにこう配を取っている。どうやって測量したのかは分からないが、高度な測量機器がある今ならまだしも、当時の技術には驚かされる」と話していた。


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