■  富  講 ■

〜  江 戸 時 代 の 宝 く じ  〜


 「富講」は、今で言う宝くじである。江戸や大坂だけでなく、熊本など各藩でも盛んだったという。抽選会場である「富場」には、一獲千金の夢を追う人たちが詰めかけ、芝居や相撲などの興行に劣らないにぎわいを見せた。熊本では「宝暦の改革」のころ(18世紀半ば)始まり、江戸末の天保(1830−43年)のころには1年間に30回近くも開かれたほど。富講の名目はさまざまだが、いずれの場合も「富落銭」といわれる上納金が藩に納められ、藩にとって手軽な資金調達法となっていた。

 
「本揃押 五十文銭 八貫目」と賞金額などを書いた旗。宮本治人さん方に代々伝わったものだ=長洲町

「熊本藤崎社千両冨場之図」(日本銀行金融研究所蔵)。舞台の上で行われている富突きを見守る群集とそれを取り囲む旗。富講は興行的要素が強かったことがよく分かる

 

西口惟精さんが保管している小国や久住の富札=熊本市

 

弘生菅原神社の鷽替えで使用されている抽選箱。箱の中にある駒を中央の穴から錐で突き刺き、刺さった駒に書かれた数字が当選番号= 西合志町

 

 「この旗は高級絹織物の緞子(どんす)です。富講がいかに華やかだったかが分かります」

 玉名郡長洲町の郷土史家宮本治人さん(75)は家に代々伝わる旗を見せてくれた。縦80センチ、横60センチ。上品な赤褐色で中央に白字で大きく「五十文銭八貫目」、その右に「三百五拾弐」、左に「晒御番所」などと墨で書かれている。添え状には八代富会所の印鑑。

 これらのことから、米の積み出し港だった菊池川河口の晒番所の上荷小頭川西松兵衛が、八代富会所で買った352番の富札が50文銭で 8貫目に当たったことが分かる。

 富場の様子を今に伝える「熊本藤崎社千両冨場之図」を見ると、富場を取り巻くように旗が立てられている様子が描かれている。この旗も、そうした使われ方をしていたのかもしれない。

●13日に1回開催

 八代市文化財保護委員の蓑田勝彦さん(66)は、「町在」という細川藩の文書などで、富講を調べた。それによると、藤崎宮や本妙寺、代継宮、大慈寺などの寺社の改修、南関大火(寛政5=1793=年、同10年)の復興、宇土支藩など藩主一門、さらに干拓の資金調達など、さまざまな名目で開かれていた。

 その回数は天保7(1836)年から弘化4(1847)年の12年間で339回。年平均28.25回、13日に1回の割合で開かれていたことになる。

 富講は、藩と関係の深い町人が「富元」となり、その下に「富組」を置いて富札の販売や富場の運営などにあたった。富元は西古町別当の財津九十郎、新三丁目別当の河嶋平三郎ら7、8人で、1つの富講で20の富組が担当した。

●1日遊べる興行

 宝暦3(1753)年3月、藤崎宮であった富講では、1枚60文の富札が35,000枚売り出された。富講当日、初札に始まり中富、本富など、今風に言えば4ステージに分かれて抽選し、当たり札は合計251本。最高賞金は5,000目だから銭 250,000文(250貫目、1貫目は1,000文)だった。富札の4,200倍近い額だ。

 興味深いのは収支決算。収入である売上高は60文の富札が35,000枚だから完売すれば2,100貫目。支出は、賞金総額が 1,255貫目で売上総額の6割。藤崎宮に1割5分の188貫目余りを納入し、富札1枚につき10文の手数料を差し引いた残り 300貫目余りが藩に上納されたことになる。

 蓑田さんは、「当初は社殿の補修や建設など資金調達のために開いたのだろうが、後には関係者は富講をあてにするようになったようだ。許可を与えるだけで上納金が集まる藩もたまらなかっただろう。富講そのものも派手になり、富札を買った人が富場で 1日遊べる興行になった」という。

●手永会所で出張販売

 熊本市の西口惟精さん(78)方には、小国富と久住富などの富札が約300枚残されている。横9.5センチ、縦16センチほどの大きさで、富札の値段、実施年、富元の印、番号などが記されている。また、裏に人の名が書かれたものもある。

 西口さんによると水次村(菊池市)などの庄屋だった3代前の西口敬八が明治初めに勤めていた河原(同)手永会所が廃止になった時に、不要となった書類と一緒に襖の下張りに使っていたものという。

 蓑田さんは小国や久住の富札が、河原会所にあったことなどから、富札は手永会所でも出張販売されていたと見る。富講の当日、例えば藤崎宮に来ることができる人は限られている。富場に行けない地方の人が富札を買い、当選番号を確かめ、賞金を受け取るのが手永会所だったのだ。

 富講は金額も次第に高くなり、幕末には「千両富」も登場した。1等賞金が金1,000両。最初のころの10数倍にも跳ね上がり、さらに射幸心をあおっていった。明治2(1869)年、時の政府が禁止令を出すまで富講は行われていたという

 

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 「この錐(きり)で箱の中の駒を突き、刺さった駒の番号が当たりです」。菊池郡西合志町弘生(ひろお)菅原神社の宮総代長の本田孝さん(77)は、箱の中を勢いよく突いて見せた。

 富講の抽選は富突きと呼ばれる方法で行われたが、同地区で今も鷽(うそ)替え神事の抽選は富突きで行われている。

 縦横45センチ、高さ30センチほどの木製の箱に、1から699まで番号を書いた駒が入っている。駒の大きさは縦2.5センチ横2センチ。宮総代が長さ50センチほどの錐で、箱の天井にあいた穴から駒を突く。

 地区の約350戸には、あらかじめ1から699までの番号を書いた札が2枚ずつ配られており、富突きで当たった数字と同じ札を持っている人が賞品をもらうというやり方だ。

 「熊本藤崎社千両冨場之図」では、ステージ中央に大きな箱が置かれ、その上に座った裃(かみしも)姿の3人の子どもが錐で箱の中の木札を突いている様子が描かれている。その前では白紙に当たり番号を書いている。

 富講は興行的賭博といわれるが、富突きは演出効果も大きく、錐の先をかたずを飲んで見守る観客の熱気が伝わって来るようだ。


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