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鯛 料 理 ■
〜葬儀無事終えた「祝い膳」 〜
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天保7(1836)年正月、豊後竹田の岡藩の室十之助は藩主の名代として、細川斉茲(なりしげ)の葬儀に代香するために熊本を訪れた。その記録「熊本行日記」は室家に受け継がれてきたが、中で興味深いのが料理の記録。熊本市黒髪の泰勝寺であった葬儀の前に豪勢な精進料理の昼食を取り、葬儀後、新町の本陣で精進落としの鯛(タイ)をふんだんに使った豪華な料理が出たとある。
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「熊本行日記」の表紙 |
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鯛をさばく山口則男さん
=熊本市新町の「松葉」
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【鰭付き鯛のお吸物】 マツタケ、水前寺ノリが入る |
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【鯛の煮付け】
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【葛鯛】
三つ葉と水前寺ノリ、おろしショウガ添え
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【柚下塩鯛】
鯛に柚と塩をふった刺し身
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「特別な料理ではありませんが、鯛の産地として知られていた有明海を抱える熊本ならではの料理。一番寒い時期に、わざわざ熊本に来た竹田の殿様の名代をもてなすために作った料理ではないでしょうか。鯛がうまい時期ですからね」
料理の再現を依頼した熊本市新町の「松葉」の山口則男さん(55)は、日記の献立を見て、直ちにこう言った。江戸時代には手の込んだ鯛料理が創作されているが、献立にあるのは素材を生かしたシンプルなもの。
「御献立」「次御献立」「下々御献立」の3つが書かれ、それぞれ主人、その家来の献立。いずれも鯛がメーンだが、山口さんが作ったのは「次御献立」。鰭(ひれ)付き鯛の吸い物、鯛の煮付け、柚(ゆず)下塩鯛、それに葛(くず)鯛という”鯛づくし”。ほかに牛蒡(ごぼう)の汁、海苔(のり)付きのクワイ、酒などが付く。
「細川さんの料理は普通のものが多く、これといった特徴はありません。鯛はハレの料理によく使われており、主人はもちろん家来にも、これだけ鯛を使った料理を出したのは、大役を無事終えたという”お祝い”だったからでしょう」と山口さん。
●鯛づくしに藩士感激
一行は室十之助以下44人と馬5頭の行列。正月8日に出発し、9日に熊本領に入り、阿蘇内の牧泊。10日に二重峠の野外でお茶をして、大津へ。体調がすぐれないため1日静養し、12日に新町の澤屋へ入った。澤屋は要人が泊まる本陣。御用掛りは近くの旅館松原屋の栄次郎。夕餉(ゆうげ)は大根や白菜など野菜中心の一汁五菜。
13日が葬儀。細川藩士の案内で御客屋に入り、昼食は野菜や湯葉、ずいき、豆腐、飛龍頭(がんもどき)などを使った精進料理で、形式通りの豪勢なものだった。家来も精進料理。
葬儀の後、澤屋で”鯛料理”が出た。「精進料理しか食べない」と一応断ったものの、「出発を祝う料理」と押し切られた形で食べた。翌14日に熊本を発ち、17日に竹田に到着した。
日記は藩への報告書を書くための手控えで、感想などは書かれていない。十之助の子孫の室慎一さん(68)=東京都狛江市=は「竹田は海から遠く、魚は大変貴重だった。それだけにあれだけの鯛を使った料理は初めてだったはずで、十之助をはじめ藩士は感激したでしょう」と言う。
●参勤交代で情報交換
藩政時代の史料には料理の献立、野菜などの素材がよく登場する。しかし、いわゆる料理の本ではなく、文書のあちこちに出てくる備忘録的な記述が多い。しかも正月などの行事や祝い事などハレの料理がほとんどで、日常の食事、特に庶民がいつもは何を食べていたのかとなると、ほとんど分からない。
新熊本市史の編纂(へんさん)過程でも多くの史料が収集された。赤穂47士の堀部家の一門である熊本堀部家の文書には江戸時代初めごろの年中行事や季節の調えものなどが記録されている。正月の雑煮などが詳細に書かれているほか、漬物の漬け方、みその作り方なども出てくる。
一方、嘉永6(1853)年の飽田・詫摩郡各手永会所の献立には、正月料理をはじめ四季折々の多彩な料理が記録されている。
細川藩の料理を研究した大分市の食文化研究家の江後迪子さんは「細川家は大藩だからそれなりの料理がありますが、これといった特徴はないように思います。いい素材があるから、手の込んだ特別な料理が生まれなかったのかもしれません。当時は参勤交代で江戸に全国から大名たちが行くので情報交換が盛んに行われ、おいしいとなるとすぐ取り入れるなど、かなり普遍的な料理もありました」と言う。今、考える以上に食生活が豊かだったことは間違いないようだ。
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