■  河 俣 塗 り ■

〜謎に包まれた幻の漆工芸品 〜


 江戸から昭和初めにかけて八代郡東陽村河俣で作られていた河俣塗り。重箱や膳(ぜん)など多くの製品が残っているが、これまで記録などがほとんどなく、謎に包まれた”幻の漆工芸品”であった。このほど八代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員の鳥津亮二さん(26)らが読み終えた古文書から、”漆の里・河俣”の姿が浮かび上がった。熊本を代表する塗り物・河俣塗りは、一体どんな工芸なのか。漆の里を訪ねた。

山あいに民家が並ぶ河俣の集落=東陽村

河俣塗りの膳。シンプルで、造作がしっかりとし、塗りが美しいのが特徴だ(黒木止善館蔵)

河俣塗りの酒器。下の器に酒を入れ、上の器に注いで飲む(黒木止善館所蔵)

河俣塗りの膳の裏に押された印。「元根肥後八代川俣仲平」とある
「漆のよさをもっと見直してほしい」と、漆工芸に取り組む只一郎さん=熊本市世安町

 河俣地区を見下ろす高台にある黒木止善館。中に入ると、管理をしている柴田恒雄さん(55)が囲炉裏端に座って待っていた。同館は河俣の庄屋だった黒木家を展示施設などに活用したもので、すすけた大きな棟柱が歴史を感じさせる。展示棚には河俣塗りの膳や酒器などのほか、古文書や和紙なども並んでいる。

 「これが河俣塗りの膳です。指し物の技術もしっかりしており、塗りもいい。魅力的な工芸品ですね」と柴田さん。ペーパークラフト作家の柴田さんは東京・中野の出身。現在は同地区に工房を持ち、毎週土曜日に黒木止善館にやって来る子どもたちと和紙工芸などを楽しんでいる。

 河俣塗りは、春慶塗りを主とする塗り物で、膳や重箱など多彩な製品がある。春慶塗りは赤色のベンガラなどで木地を着色し、上から透明漆を塗って仕上げるが、柴田さんが見せてくれた膳はシンプルでいかにも使いやすそう。裏に「元根肥後八代川俣仲平」の印が押してあった。

 柴田さんは「今もそうだが、山村は昔からどうやって食っていこうか、真剣に考え、いろんなことをやってきた。おそらく止善も庄屋として河俣をどうするか、真剣に取り組んだはず。塗り物もその一つで、八代などの旧家に数多く残っており、かなり作られたのではないか」という。

 黒木止善(1836-1911年)は江戸時代末、藩校の時習館に学び、河俣村で寺子屋を開いて村人に習字や論語などを教えた。初代東京帝大医科大学長の緒方正規も小さいころ、ここで学んだ。止善は地元の文化や産業の育成に努め、河俣塗りを振興する一方、自らも指し物や塗り物を作っている。

●村挙げての工芸

 八代市立博物館に河俣村の旧家である冨岡家に伝わる古文書が寄贈されたのは2003年7月。鳥津さんら 4人が103点に上る古文書を読んだところ、河俣塗りに関する記述が出てきた。

 河俣塗りはこれまで、八代郡誌(1927年)に出てくる「日向の国から早田荘左衛門が河俣村に移り住み、冨岡を名乗って、農業の副業に指し物を始めた。膳、重箱などを精巧な技術で作り、明治10(1877)年の内国勧業博覧会に出品し賞状を受けた。近年、有佐駅付近に出張所を設けた」などとの記述を基に語られてきた。しかし、その出典は不明だった。

 冨岡家の「万物日記覚」によると、初代冨岡仲平は天明4(1784)年に郡筒に召し抱えられ、寛政3(1791)年に指し物の制作を藩から命じられた。文化6(1809)年に殿様の惣輪台(膳)ができ、褒美をもらった。

 二代仲平は京都や江戸藩邸で使う指し物を作ったほか、砲術目録をもらい、烏乱者見締役となって不審人物の取り締まりにあたった。三代仲平は第一回内国勧業博覧会に春慶塗りを出して、高い評価を受けたという。

 中でも興味深いのが、天保7(1836)年3月の冨岡仲平ら16人の起請文。春慶塗りの技術伝承を河俣村の人に限る、後々まで使えるものを入念に作る、初めだけ美しく後は構わないという製品は本意ではない、安かろう悪かろうの製品は作らない、以上のことを守らない者は仲間から外す―などと明記。技術の流出を防ぎ、品質を保持するため、今で言うなら”組合”を作っていたことが分かる。

 鳥津さんは「16人のうち14人が河俣塗りの関係者で、彼らをまとめたのが冨岡仲平。それぞれの職人が木地から塗りまで一人でやっていたのか、それとも分業だったのかは分かりませんが、村を挙げての産業であったようです」と言う。

 また、現存する重箱などの裏にある「仲平」の印を調べた結果、「仲平」の印は5種類あり、「仲平」だけでなく「兵左衛門」「冨岡和三」「金十郎」「清三」「兵八」などがあり、作られた時代や職人がさまざまであるらしいことも分かった。

●商工学校でも養成

 熊本では江戸時代後半、細川重賢の宝暦の改革以後、殖産興業が盛んになる。ハゼノキを栽培し蝋を取り、和紙の生産を盛んにした。藩の”直轄”だけでなく、各地でイ草や養蚕、焼き物などが奨励され、今風に言えば”村おこし”の特産品として盛んに作られた。河俣塗りもその一つだったようだ。

 大正11(1922)年に校名改称した熊本市立商工学校の定員をみると、「商業科300、建築科105、木材工芸75、漆工30」とあり、漆工芸職人の養成に力を入れたことが分かる。同商工学校は市立工業徒弟学校として発足、尋常小学校卒以上を対象に3年間で卒業し、さらに2年間の研究生として研さんすることもできた。

 同商工学校の開校と同時に採用されたのが県近代文化功労者の川俣芳州(1902―82年)。福島県会津若松市の会津塗りの家に生まれ、蒔絵(まきえ)をよくした。後に人間国宝となる増村益城(1910―96年)も川俣に学んだ。

 現在、熊本市世安町で漆工芸を営んでいる只一郎さん(51)の父・末雄さんも川俣の教え子。かつては重箱などの漆器、剣道具などを作っていたが、現在は修理や日本刀の鞘が仕事の大半。「漆製品が家庭から姿を消して久しい。美しさと堅牢(けんろう)さを兼ね備えた漆の良さをもっと知ってほしい」という。

 「製造堅牢ニシテ家常ノ用器ニ適ス」とされた河俣塗りは、下益城郡富合町に伝わり、榎津塗りとして明治から大正期には18戸ほどで生産された。しかし、戦後の需要減から榎津塗りも現在では製品を残すだけとなっている。

 


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