築城/熊本ルネッサンス
  
 徳川家康の江戸開府(1603年)から4世紀。江戸文化が注目を集めている。熊本でも先に刊行が終わった 「新熊本市史」の編纂(へんさん)過程で、新しい”熊本の江戸時代”が浮き彫りとなった。 おりから熊本城築城400年を3年後に控え、江戸文化や伝統産業をあらためて学ぶ県民運動 「熊本ルネッサンス」が始まった。今に残る県内各地の江戸文化、伝統産業を、新たに分かった事実をもとに訪ねた。

第 24回   物価        (3月28日朝刊掲載)  

 江戸時代末の「熊本町方諸品値段調帳」には、米麦をはじめ大豆やそば、さらに菓子など多くの品物はもちろん、大工などの日当、風呂代などさまざまなものの値段が記されている。パソコンを使ってデータベース化された一覧表を見ると、今の感覚からすれば比較的に高いもの、安いものなどいろいろ。「値段調帳」に見る熊本町民の暮らしの一端―。〔全文〕

第 23回   肥後梅       (2月28日朝刊掲載)  

  「この冬は寒かったせいか、この梅が咲くのがずいぶん遅れました。この花が咲くともう春ですね」。玉名市天水町の野尻勇さん(36)方を訪ねた時、庭の古木がちょうど満開だった。野尻さんの祖父の耕作さん(1978年に84歳で死去)は、「肥後梅」の栽培で知られていた趣味人。熊本の古典園芸は肥後椿、肥後菊などの「肥後六花」が有名だが、六花以外にも梅や藤、万年青(おもと)、桜草などの花があったといわれる。また、虫や魚を育てたり、鳥の鳴き合わせも盛んだったという。”もっこす園芸”の一つである肥後梅の歴史をたどった。〔全文〕

第 22回   熊本城小天守   (1月23日朝刊掲載)  

  「あっ、小天守がない」。熊本大の北野隆教授は、山口県立文書館の毛利家文庫を調査中に思わず声を上げそうになったという。偶然見つけた絵図「肥後熊本城略図」の中央にひと際大きく天主閣が描かれていたが、大天守と小天守が並んでいるはずなのに、三層六階の大天守だけしか描かれていなかったからだ。小天守の位置には不開門から西に延びた道が一本。略図は慶長17(1612)年ごろ描かれたものであることから、同12年ごろ完成したといわれる熊本城には当初、小天守はなかったことになる。小天守はいつ、だれが造ったのか。〔全文〕

第 21回   カライモ伝来   (12月26日朝刊掲載)  

 菊池郡大津町ではカンショ(甘藷)のことを親しみを込めて「カライモ」と言う。「サツマイモ」とは呼ばない。「唐芋」か「薩摩芋」か。そのルーツを調べている地域づくりグループ「明日の観光大津を創(つく)る会」の西村和正さん(54)は、カライモには朱印船貿易が盛んだった安土桃山時代から江戸初期当時の”ハイカラな食文化”が秘められているという。これまで考えられてきた「中国→琉球→鹿児島→熊本」ルートより前に、ポルトガル人が南蛮料理などの高級食材として長崎に持ってきたものが直接、熊本に入ったという「西村説」。カライモのイメージ一新を図る新説に迫った。〔全文〕

第 20回   人形浄瑠璃   (11月25日朝刊掲載)  

 菊池郡合志町の歴史資料館に江戸―明治時代の浄瑠璃本650点以上をはじめ、人形の頭や衣装などが収蔵されている。当時、県内で活躍していた浄瑠璃三味線弾きの金澤蟻鶴(ぎかく、本名志柿儀三郎)が所有していたもので、子孫の可然さん(今年7月に92歳で死去)が1997年に寄贈。これだけまとまって残っているのは珍しいという。浄瑠璃は、県内でも江戸末から明治にかけて盛んだったといわれ、県無形重要文化財の「清和村文楽人形芝居」からもその一端がうかがえる。しかし、清和文楽人形を除けばほとんどの人形座が姿を消した今、忘れさられた民衆芸能となってしまった。「蟻鶴文庫」をもとに、“芸どころ・熊本”で一世を風靡(ふうび)した浄瑠璃の歴史をたどった。 〔全文〕

第 19回   斤量式測定法   (10月26日朝刊掲載)  

 阿蘇・南郷谷を東西に貫き、今も300ヘクタールの田畑を潤す南阿蘇村の保木下井手。江戸時代初期、この井手を開いた用水方定役の片山嘉左衛門(松翁)は、井手の精密な測量を行うために『斤量式測定法』を考案したといわれる。「日夜寝食を忘れて思いを凝らし、各地の井手を視察して発想した」という斤量式測定法。当時は全国的に新田開発ブームで、戦国時代に発達した築城技術などで堰(せき)や取水口、用水路(井手)などが作られたとされるが、その土木技術はつまびらかではない。土木技術史に新たな1ページを書き加えようとしている斤量式測定法とは―。 〔全文〕

第 18回   河童伝説   (9月25日朝刊掲載)  

 「川太郎には川童(河童=かっぱ)、川太郎、川男、香赤の四種類がある。いずれも肌はエノキに生えるキノコの色、頭に皿があって、体全体にぬめりがあり、悪臭がする。目は大きく輝き、爪が長く、動きは敏しょう…」。このほど見つかった菊池市原の天地元水神社を司る渋江家に伝わる江戸時代の文書=安永10(1781)年=は、河童を”異形の怪物”と記す。神奈川大学の小馬(こんま)徹教授らによると渋江氏は古くから水神を祭り、眷族(けんぞく=一族)である河童を治めてきた家柄。古文書の本格的な解読はこれからだが、「河童伝説に渋江氏が深くかかわっていたことは間違いなく、それを裏付ける貴重な史料」という。 〔全文〕

第 17回   相良清兵衛   (8月24日朝刊掲載)  

人吉城跡(人吉市)で、大型の石積み地下室2基の整備が進んでいる。寛永17(1640)年の「お下(しも)の乱」で焼け落ちた相良藩家老相良清兵衛の「お下屋敷」跡から見つかったもので、焼けた木材などで埋められ、当時の破壊の跡を残していた。一族121人が惨殺された「お下の乱」は、これまでは文献を中心に考証されてきたが、発掘調査で新たな謎が浮かび上がっている。 〔全文〕

第 16回   高瀬絞り木綿   (7月22日朝刊掲載)  

日本の絞り木綿の嚆矢(こうし)といわれる「高瀬絞り木綿」。玉名市の染織工芸家下川冨士子さん(68)は、古くから地元で染められ、女性たちに使われてきたこの布のことをもっと知ってもらおうと、小中高校での”出前講座”に力を入れている。つまみ上げた生地を糸で縛るだけの技法だが、実際に絞って染めた子どもたちは、そのシンプルで力強い美しさに歓声をあげる。”幻”と言われてきた「高瀬絞り」とは―。 〔全文〕

第15回   火事と纏          (6月24日朝刊掲載)  

「火事とけんかは江戸の華」というが、熊本城下でも火事は多かった。寛永16(1639)年から幕末までの約230年に大きな火事だけでも67件も発生している(新熊本市史)。およそ3年半に1回の割合。武家屋敷も町家もわら葺(ぶ)きが多く、1度、出火すると地域全体が焼失するような大火になることも多かった。消火は、武家、町家ごとに火消組が組織されていた。このほど旧家の古文書から町火消組がそれぞれ所持していた纏(まとい)の絵が見つかった。火消組の”旗印”というべき纏。火事から町を守る意気込みが伝わってくる。   〔全文〕

第14回   旅            (5月27日朝刊掲載)  

  江戸時代は”旅の時代”であった。県内でも参勤交代の藩士はもちろん町民や農民も、藩の許可を得て、湯治や阿蘇山へのお参り、さらに遠く関西の高野山や伊勢神宮、長野の善光寺などへ出掛けている。名目は神社参拝などだが、途中、名所旧跡を回って、その土地土地の名物などを楽しむ物見遊山の旅。今と少しも変わらないが、中でも熊本の豪農が141日をかけて栃木県の日光参詣を記録した「道中之記」は圧巻だ。   〔全文〕

第13回   富 講          (4月27日朝刊掲載)  

  「富講」は、今で言う宝くじである。江戸や大坂だけでなく、熊本など各藩でも盛んだったという。抽選会場である「富場」には、一獲千金の夢を追う人たちが詰めかけ、芝居や相撲などの興行に劣らないにぎわいを見せた。熊本では「宝暦の改革」のころ(18世紀半ば)始まり、江戸末の天保(1830−43年)のころには1年間に30回近くも開かれたほど。富講の名目はさまざまだが、いずれの場合も「富落銭」といわれる上納金が藩に納められ、藩にとって手軽な資金調達法となっていた。  〔全文〕

第12回   波奈之丸          (3月23日朝刊掲載)  

  熊本城天守閣に展示されている御座船「波奈之丸(なみなしまる)」の船屋形(国指定重要文化財)の補修作業が慎重に進められている。細川藩が参勤交代に使った船で、船屋形は船の中央部にあった藩主の居間や寝室などの部分。総漆塗りで金メッキの飾り金具を施し、格天井にはさまざまな植物を描いた豪華絢爛(けんらん)の造作。最近になって天井画を描いたのは、細川家の御用絵師だったことも判明した。  〔全文〕

第11回   絵 馬          (2月21日朝刊掲載)  

  県内の神社や寺院などに奉納された絵馬の調査が進み、江戸時代の絵馬も数多く残っていることが分かった。大きさが縦横2メートルを超える”大作”もある大絵馬。2003年の旧鹿本郡市に続いて熊本市でもこのほど、歴史愛好グループが悉皆(しっかい)調査を実施。その結果、江戸から昭和、さらに平成の今も奉納の慣習は受け継がれ、地域の歴史の一こまとなっていることが分かった。図柄は全国的に多い侍・武者図や合戦・戦争図、動物絵馬、神話を描いたもの、生業絵馬と呼ばれる暮らしを描いたものもあった。調査したグループは「こんなに多彩な世界とは思わなかった」と口をそろえた。  〔全文〕

第10回   下浦石工          (1月24日朝刊掲載)  

  本渡市下浦。天草上島の西端に位置するこの地域には24軒の”石屋さん”が密集する。海沿いの道路や里山に続く曲がりくねった道路の、思わぬ所で石を切ったり、磨いたりする音と出合うと、ここが「下浦石工」のふるさとであることを実感する。かつて彼らは、この地域に無尽蔵にあるという砂岩の「下浦石」を好んで使い、県内はもちろん九州各地に進出、多くの石製品と人材を残した。 〔全文〕

第9回   水俣のハゼ          (12月21日朝刊掲載)  

   水俣市街地の背後の高台である侍地区。ハゼの実の日本一の産地である。市はぜ振興会(緒方道義会長)のメンバーらが管理するハゼノキは現在、1万5千本。江戸時代半ば、困窮を極めた細川藩の財政再建を目的とした宝暦の改革では、殖産興業の”目玉作物”として10万本を超すハゼノキが植えられたという。その伝統が今も脈々と受け継がれている侍地区を訪ねた。  〔全文〕  

第8回   妙見祭の笠鉾  (11月15日朝刊掲載)  

 九州三大祭りの一つといわれる八代市の妙見さん(八代神社例祭)を彩る9基の笠鉾(かさぼこ)は、今年も23日の神幸行列で豪華絢爛(けんらん)の時代絵巻を繰り広げる。全国でも特異な一国二城の城下町・八代の繁栄ぶりを今に伝える笠鉾。今、作るなら一基一億円以上はかかるといわれるが、その随所に秘められた匠の技は工芸品としての完成度の高さと同時に、町衆の”粋な心意気”を見せつける。
  〔全文〕  

第7回   鯛料理          (10月18日朝刊掲載)  

 天保7(1836)年正月、豊後竹田の岡藩の室十之助は藩主の名代として、細川斉茲(なりしげ)の葬儀に代香するために熊本を訪れた。その記録「熊本行日記」は室家に受け継がれてきたが、中で興味深いのが料理の記録。熊本市黒髪の泰勝寺であった葬儀の前に豪勢な精進料理の昼食を取り、葬儀後、新町の本陣で精進落としの鯛(タイ)をふんだんに使った豪華な料理が出たとある。  〔全文〕  

第6回   河俣塗り          (9月14日朝刊掲載)  

 江戸から昭和初めにかけて八代郡東陽村河俣で作られていた河俣塗り。重箱や膳(ぜん)など多くの製品が残っているが、これまで記録などがほとんどなく、 謎に包まれた”幻の漆工芸品”であった。このほど八代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員の鳥津亮二さん(26)らが読み終えた古文書から、”漆の里・河俣”の姿が浮かび上がった。熊本を代表する塗り物・河俣塗りは、一体どんな工芸なのか。漆の里を訪ねた。〔全文〕

第5回   陶磁器          (8月13日朝刊掲載)  

 熊本の焼き物といえば小代、八代(高田)、高浜焼などが知られるが、江戸時代中―後期、県内各地に多くの窯が作られた。藩の御用窯、地域挙げてのいわば殖産興業として開いた窯…。作品や文献、窯跡やその出土物などから、あったことは間違いないが、その多くが調査・研究は進んでおらず、”幻の焼き物”となっている。そんな”幻の焼き物”の一つで、芦北郡芦北町が地域おこしにしようと復元に取り組んでいる漆川内焼(うすのこちやき)の窯跡を訪ねた。〔全文〕

第4回  馬門石          (7月15日朝刊掲載)  

 宇土市網津町の馬門地区などで産出される馬門石。独特の薄紅色をした馬門石は、別名「阿蘇ピンク石」とも呼ばれる。細川藩時代、唯一の御用石として厳しく管理され、領内の橋や水門など公共建築に広く使われた貴重な石だ。
 阿蘇ピンク石はまた、古墳時代、大和朝廷の大王の石棺として用いられたことも分かっている。現在、1500年前と同様に石棺を古代船で畿内まで運ぼうという、地元を中心としたプロジェクトも進んでいる。
 古代から綿々と使われてきた馬門石だが、中国産の安い石材におされ、昭和30年代に本格的な切り出しは行われなくなり、今では”幻の石”となっている。最近の調査で明らかになった馬門石の石切り場を訪ねた。〔全文〕

第3回  造り物             (6月17日朝刊掲載)  

 熊本市現代美術館で開かれている「生人形と松本喜三郎」展。触ればその体温が伝わってくるような生人形の数々が異空間を作り出している。「聖観世音菩薩像」「谷汲観音像」…。江戸・浅草で「生人形師・喜三郎」の名を知らしめたこれらの人形は、江戸時代末から明治にかけて、熊本城下の町民らを熱狂させた見世物の「造り物」がルーツ。日本一の生人形師を生んだ”熊本の造り物文化”を訪ねた。〔全文〕

第2回  幻の「同田貫銃」  (5月26日朝刊掲載)  

 江戸時代末、玉名市と玉名郡南関町にあった銃砲の”大工場”で大量の火縄銃や西洋銃が作られていたという。特に南関町の工場は、徳川幕府の有力幕臣が「日本一」と高く評価。100人以上の職人を擁し、分業体制で2000丁以上が生産されたと記録に残る。しかし、工場跡はおろか生産された銃砲もほとんど知られていない。”幻の銃砲工場”を追った。〔全文〕

第1回  新  町             (4月30日朝刊掲載)

 熊本市麻生田の東坂祐次郎さんが、先祖伝来の新町絵図を見せてくれた。 畳より一回り大きい、縦195センチ、横124センチもあり、道に軒を連ねた商家がびっしりと描かれ、 碁盤の目のように整然と通った道が描かれている。新町の道は今も整然と縦横に走っており、 加藤清正が攻撃に備えて、見通しを悪くするためにわざとしたという竪町の”食い違い”の道もそのまま残っている。
 新町は1877(明治10)年の西南戦争で焼け野が原となったため、江戸時代の名残をとどめるのは道以外にほとんどない。〔全文〕



 

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